その朝、私は鎌倉の自宅で家族と一緒にいました。
2024年4月6日、土曜日の穏やかな朝。
45回目の誕生日を迎えた私のスマートフォンに、母からLINEが届きました。
「お父さんの年齢に並んだね」
たった一言でした。
でもその言葉を読んだ瞬間、私の中で何かが、静かに動きました。

亡き父との想い出
私が10歳の時、父は胃がんでこの世を去りました。享年45歳。
大学を卒業し、社会人になって結婚し、子供を授かって以来、私の中にその数字はありました。
強く意識していたわけではありません。
ただ、心のどこかにあった…そんな感覚です。
父は小児麻痺の影響で右腕が非常に細く、ほとんど使えませんでした。
それでも、左腕一本でキャッチボールの相手をしてくれました。
父の故郷である和歌山の海にも連れて行ってくれました。
ビーチボールが沖に流されてしまうのを父が必死に泳いで取りに行ってくれたことは、今でもはっきりと記憶しています。

そんな父から、右腕が使えないことへの不満を聞いたことは、少なくとも私はありません。一度も、です。
父は猛烈な読書家でした。
私が5歳の頃、論語を読まされていました。
親戚の前で「子曰く、学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。」と朗読したこともあります。
当時は「読まされている」という感覚しかありませんでしたが、今になって古典に深く親しめているのは、間違いなく父のおかげだと思っています。
そして父には、こんなエピソードがあります。
日本を代表する思想家・安岡正篤さんの元を、父は文字通り「門を叩きに」訪ねたそうです。
「良い本を書いているから、話を聞かせてほしい」と。
子供の自分にはよく分からなかったのですが、今思えばとんでもなく大胆かつ失礼な話ですよね(笑)
もちろん、お弟子さんに追い返されたのですが、それでも父は再び訪ねました。
結局、鞄持ちをさせてもらうまでになりました。
その情熱と勇気は、今も私の胸に刻まれています。
後日、人事課長だった父と安岡正篤さんの縁から、会社に講演に来ていただくことになりました。
会社中が大騒ぎになったそうです。そういう人でした。
そんな父が、45歳で逝きました。
「恵まれた45歳」と「病院のベッドの上の45歳」
母のLINEを読んだ朝、私は改めて考えました。
父の45歳は、病院のベッドの上だった。
一方で私の45歳は、妻と2人の娘と共に、健康に、土曜日の朝を迎えることができた。
この違いは、何だろうか…と。
感謝という言葉では、到底追いつかないような感覚でした。
ただ、じんわりと、確かなものが胸の中に広がっていました。
そしてその感覚の奥から、一つの問いが湧いてきました。
自分の内側から出てきたようにも、父から聞こえてきたようにも感じた問いです。
「こんなに恵まれて幸せな45歳。この1年間を、いや、これから先の人生を、あなたはどう過ごすつもりなのか?」
40歳から、静かに育っていたもの
実はその問いは、突然降って湧いてきたわけではありません。
40歳の時、私は一念発起してグロービス経営大学院に入学しました。
当時の私は単身赴任で大阪におり、横浜に妻と小さな娘を残していたため、週末はできるだけ横浜に帰って家族と一緒に過ごしました。
その状態でグロービスに通うことを成立させるにはタイムマネジメントの強化が必須。
そういう必要性から、自らコーチングを受け始めました。
そしてグロービスでの学び・先生や仲間との議論の中で、「教育」というテーマが、自分の志として輪郭を持ち始めました。
学びは実際に活かしてこそ、です。
なので会社でも、人材育成に熱心に取り組みました。
メンバーの目が輝く瞬間に、これまでにない手応え・やり甲斐を感じました。
上司に言われたわけでもなく、「やりたいからやっている」、まさにそういう感覚です。
こんな感じで5年間、志が自分の中で静かに育ってきました。
45歳の朝に受け取った問いは、その5年間が結晶化した瞬間だったのかもしれません。

静かな決意が、立ち上がった
45歳にして抱いた、「これから先の人生を、あなたはどう過ごすつもりなのか?」という問いに対する答え。
それがコーチングを中心とした人材育成事業での起業・独立です。
ですが、当時の私は「よし、起業するぞ!」という情熱的な感覚で突き進んだわけではありません。
誰かに背中を押されたわけでもありません。
ただ、静かな決意が立ち上がった。そんな感覚です。
直観に近いものだったと言えるかもしれません。
そして、これまでの人生で最も揺るぎない感覚でもありました。

「慶」という一文字を、受け継いで
父の名前は、慶二。
私の名前は、慶明。
一文字を受け継いでいることを、私は誇りに思っています。

父が見ることのできなかった世界を、今私は生きています。
父が叶えられなかった時間を、私は今日も歩いています。
だからこそ、この一度きりの人生を、まっとうしたい。
その想いが、すべての原点であり、社名である株式会社One Life To Liveに込めた想いです。
45歳の朝に受け取った問いは、今も私の中で生き続けています。
あなたの内側にも、まだ答えていない問いが、静かに育っていませんか?
(起業の経緯については、こちらの記事もどうぞ)
橋爪 慶明|Inner Architectureコーチ
住友電気工業で23年間勤務後、47歳で独立。 グロービス経営大学院を首席(1,000名中1位)で卒業。 Inner Architecure(削ぎ落とした先に、本来の自分が還ってくる)をコンセプトに、 マンツーマンの長期伴走コーチングを提供。
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